特別対談 ブラウン氏×加藤友規「日本庭園は二十一世紀のクラシックランドスケープ」

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時代の前衛が次代の伝統を創造する

ブラウン 庭は本来、愛情をもって育まれ、人が身近に生活しているべきものです。しかし、アメリカやヨーロッパの日本庭園の現状には問題もあります。それは一種の“見せもの”になってしまっていることです。20世紀(明治)以降、観光寺院がそうであるように、朝9時から夕方5時まで見学される観光の場所、鑑賞の対象になっています。

加藤 近現代には、限られた人の私的なものであった庭園が広く多くの人に開かれましたね。

ブラウン 私は庭、とくに日本庭園が好きですが、生きた庭、生きられる庭が好きなのです。庭は本来、愛情をもって育まれ、人が身近に生活しているべきものです。その関係が庭をよくすると思います。「生きられる庭」が能動的で主体的であり、相互的でもあるのに対して、見られる庭は受動的です。私は、庭が人の営みの中に還っていくことを願っています。

加藤 昔はもっと人が庭のなかで遊んでいたのでしょうね。庭は遊興の場だったのでしょう。エネルギー革命以降、日々の暮らしから、人と自然の対話がどんどん失われました。それは庭師の美意識を培う難しさにも通底します。とくに平成以降、深刻な課題になっていると感じます。

ブラウン 日本庭園のもうひとつの問題は、現状維持に固執してしまっているケースが多いことです。守りに入っている。これでは新しいスタイルを確立することは難しい。重森三玲*3(作庭家)も川端竜子*4(日本画家)も生まれないでしょう。

加藤 庭園分野に限らず、京都の心ある職人は皆、伝統は「守る」「受け継ぐ」だけでは足りないと考えています。伝統が真に生き続けるためには、常に新しく創造され続けなければなりません。「不易」(普遍のもの)をもって、「流行」(新しいもの)を付加していくことが本当に伝統を生きることだというのが私たちの共通認識です。しかし皆が皆そうかというと、必ずしもそうではありません。

ブラウン 賛同します。単に守ることは容易く、まったく新しいことも容易い。加藤さんがしている「伝統の中に新しい価値をつくること」は、もっともめざすべきものです。加藤さんは40代で大学院に入り、博士課程を修了し、博士の学位をもっていますね。庭師が40代で大学院に入学するのはめずらしいように思いますが。

加藤 私の師匠の尼﨑博正*5先生が導いてくれました。尼﨑先生も元は作庭家で、現場から研究畑に進まれました。先生が後進育成のために京都造形芸術大学で通信制の日本庭園学コースを新設された際、先生の勧めもあり、私は42歳で大学院に学ぶことになりました。そこで私は先人の日本庭園の研究をあらためてひもとき、学んでいくことになりました。

ブラウン 大学院での学びや経験は、仕事にも理論の確立にも影響したでしょうね。

加藤 もちろんです。そうですね、リアルな現場の目線とアカデミックな研究の目線が相互に影響しあうイメージでしょうか。「一人前の庭師になるには200年かかる」という私の「庭師200年論」は、院の研究のなかで得た気づきでした。先行研究を学び、日本庭園の世界はこんなにも深いのかとしみじみと実感されるにつれて、「庭をわかるには、人の命は短すぎる」という思いが沸き上がってきたのです。そのためには、伝統から学び、仲間から学ぶことが重要です。夢窓国師*6小堀遠州*7など過去の偉人からも学ぶし、新しいデザイナーからも学ぶ。たらこスパゲティーにも学ぶ。

ブラウン たらこスパゲティー!?

加藤 パスタという外国の食文化に、たらこという日本の食べ物をあわせ、新しい美味しさを創造したわけですから。(笑)

ブラウン なるほど(笑)。植治の庭も伝統の中にモダンなものを取り入れました。伝統の中の創造ですね。

加藤 そうですね。銀閣寺(慈照寺)の向月台をご存知でしょうか。

ブラウン はい、もちろん。

加藤 NAJGAのスピーチで、歴史上の人物にタイムスリップして会えるとしたら、誰に会いたいか?という話をしました。そのとき私は、小堀遠州、夢窓国師、七代目小川治兵衛*8の3人を挙げました。もちろんその通りなのですが、実はもうひとり、私がぜひ会いたい隠れベスト1があります。

ブラウン 誰ですか。

加藤 それは、銀閣寺の向月台*9と銀沙灘をつくった人です。あれは作庭時からのものではありません。あるとき後世の庭師が、池を浚渫した白川砂をあのように盛った。それを見た人が美しいと感じて、その結果、今もああして残っています。作った人の名前も理由も伝わっていません。名もない庭師が新たな伝統をつくったのです。そういうことが大事なのでしょう。びっくりするような斬新なものが、世の中に愛され、100年後には伝統になっている。そういう、いわば“21世紀の向月台”をめざしてやっていきたいと思っています。

ブラウン すばらしいです。

無鄰菴

国の名勝庭園無鄰菴。三代目内閣総理大臣山縣有朋の別荘として七代目小川治兵衛が作庭。
100年を経た今も施主山縣の想いを読み取りフォスタリングを続ける

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*3重森三玲(しげもり・みれい)

1896〜1975年。大正〜昭和の造園家。設計した庭園および茶室は、社寺、住宅、ホテルなど100を超える。代表作に東福寺方丈庭園、松尾大社の庭園などがある。全国の著名な庭園を実測調査した『日本庭園史図鑑』全28巻(1936~1939年)、『日本庭園史大系』(共著)全35巻(1971~1976年)などの著作を遺した。

*4川端竜子(かわばた・りゅうし)

1885〜1966年。大正〜昭和の日本画家。初め洋画を学び、渡米後に日本画に転向した。壮大豪放な表現を理想とし、会場芸術としての日本画を唱えて院展を脱退。青龍社を主宰し、新境地を開いた。終生、在野の立場を貫く。文化勲章受章。主な作品に「鳴門(なると)」「魚紋」など。

*5尼﨑博正(あまさき・ひろまさ)

造園家。京都造形芸術大学教授。同大学日本庭園・歴史遺産研究センター所長。専門は日本庭園文化史、作庭、ランドスケープデザイン。『植治の庭』(編著、1990年)、『石と水の意匠』(1992年)、『庭石と水の由来』(2002年)、『尼崎博正作庭集』(2006年)、『七代目 小川治兵衛』(2012年)ほか著書多数。日本造園学会賞(1992年)、京都府文化賞功労賞(2007年)、日本公園緑地協会 北村賞(2010年)、日本庭園学会賞(2011年)などを受賞。

尼﨑博正教授

恩師の尼﨑博正教授と。京都造形芸術大学大学院博士課程修了式にて(2012 年)

*6夢窓疎石(むそう・そせき)

1579〜1647年。江戸初期の武家、茶人・造園家。豊臣秀吉、徳川家康・秀忠らに仕え、仙洞御所や駿府(すんぷ)城、二条城の行幸御殿や二之丸庭園の作庭にもたずさわり、近世を代表する作庭家として名高い。和歌や書、茶にも親しみ、茶人としても著名。号は宗甫(そうほ)・孤篷(こほう)庵。

*7小堀遠州(こぼり・えんしゅう)

1579〜1647年。江戸初期の武家、茶人・造園家。豊臣秀吉、徳川家康・秀忠らに仕え、仙洞御所や駿府(すんぷ)城、二条城の行幸御殿や二之丸庭園の作庭にもたずさわり、近世を代表する作庭家として名高い。和歌や書、茶にも親しみ、茶人としても著名。号は宗甫(そうほ)・孤篷(こほう)庵。

*8七代目 小川治兵衛(おがわ・じへえ)

1860〜1933年。明治・大正・昭和の造園家。屋号から「植治」と通称される山縣有朋別荘の無鄰菴(むりんあん)を皮切りに、数多くの日本庭園を作庭し、近代日本の造園界を牽引した。流れを主体とし、臼石などの加工石を用いた開放的な雰囲気の庭園が特徴で、平安神宮神苑や對龍山荘庭園、円山公園、何有荘(かいうそう)、碧雲荘(へきうんそう)、旧古河庭園などが代表作として知られる。

*9慈照寺(銀閣寺)の向月台

足利義政の山荘 東山殿(ひがしやまどの)を、死後に禅寺としたのが通称銀閣寺こと慈照寺で、ユネスコの世界遺産「古都京都の文化財」を構成する社寺などの1つでもある。その庭園に、白砂を盛り上げた向月台(こうげつだい)と銀沙灘(ぎんさだん)がある。今では銀閣の庭といえば向月台とされるほどに有名だが、当初からあったものではなく、江戸時代初期に庭園が改修されて以降に作られたものと考えられている。現代芸術家の岡本太郎が絶賛したことで知られ、池を浚渫した砂を造形美に転じた庭師の知恵ともいわれるが、作った意図や作者については、いまだ明らかとなっていない。

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