【特別対談】北米日本庭園協会(NAJGA)会長 ケンダル・ブラウン氏×加藤友規
北米日本庭園協会(NAJGA)会長ケンダル・ブラウン氏。北米の日本庭園研究の第一人者として知られ、日本美術に関する著書を多数発行するとともに、日本庭園の普及・啓発にも尽くしておられます。現在は「庭の未来像」を考察する次著を構想中で、このほど調査研究のため来日、弊社社長 加藤友規と、日本庭園や庭師の現状と将来について語り合いました。
国の登録有形文化財である順正書院(「南禅寺 順正」)で冬木立の庭園を眺めながらの対談は、ブラウン氏の著書のテーマに始まり、今回の訪問のきっかけとなった加藤のNAJGAシカゴカンファレンス基調講演(2014年10月)、日本庭園の今日的価値、これからの庭師に求められるものなど、多岐にわたる深い対話となりました。
庭師の心は「作庭四分、育成六分」
加藤
ブラウンさん、ようこそお越しくださいました。今回の来日は、次の著書に向けての調査研究ということですが、その本についてお聞かせください。どのようなテーマで書いておられるのですか?
ブラウン
いま、私は、庭の未来像についての本を書こうとしています。その本では日本庭園の現状を語りたいのですが、それは単に古典的な作庭の型や作法を紹介したいのではなく、「生きられる風景」*1 としての21世紀の日本庭園のあり方を見つめ、育み方を考える内容にしたいと考えています。
加藤
それは素晴らしい御本になりそうですね。
ブラウン
私は次の本で概念の創造をめざしています。北米日本庭園協会(NAJGA)*2 シカゴカンファレンスでの基調講演であなたが話した「フォスタリング」や「作庭四分、育成六分」の思想は、まさに私が思い描いていたこれからの庭園のあり方でした。私は大いに感銘を受け、二人で語り合いたいと思い、今日ここに来ました。
加藤
かたじけなく思います。ありがとうございます。
ブラウン
あなたは「フォスタリング(fostering/育成)」という新しい概念を語り、エボリューション(evolution/進化)を語りましたね。100年先、200年先の庭を思いながらケアしていくというフォスタリングの発想は、我々にとって新しく、また日本庭園の将来にとって重要なものでした。そしてまた、そのメッセージが、伝統と格式の古都・京都の代々続く家の庭師から発されていることの意味は大きいと考えます。あなたのその哲学がどのようにして築かれてきたのかは興味深いです。
加藤
どれもこれまでずっとやってきたこと、考えていたこと、折々に断片的に話していたことばかりです。ルーツは、子どもの頃の祖父との話にあり、父との話にあり、これまでの経験の中にあります。ただ、人に伝わる言葉になっていませんでした。父は「あんじょうせいよ」などと言うばかりでしたし、職人の教えや学びというのはそういうものでした。ですが、時代も動き、海外からインターンシップ生が学びに来たりもするようになると、「あんじょうせいよ」ではすみません。きちんと伝えて共有できる言葉にして、つまり、暗黙知を共有知にしていかなければという一種の使命感をかねがね抱いておりました。ですので、今回、シカゴで講演の場をいただいたことは、光栄なことでもあり、ありがたい機会でもありました。
5代目加藤次郎(現社長加藤友規の祖父)。南禅寺大玄関作庭時(1970年)
ブラウン
あなたの哲学はより広く発信するべきです。言うべきことを、言うべき人が、言うべきときに言っている。シカゴの会議で皆がそう感じました。
加藤
今までバラバラに話していたことが、多少は整理できたでしょうか。どれも私たちの間では昔から言われてきたことです。父たち昔の庭師の言葉で言えば「木の声をきけ」「石の声をきけ」といったようなことですね。それがアメリカの人にも受け容れられるのは嬉しいことです。
植彌加藤造園の庭師が育む南禅寺順正庭園。書院は国の登録有形文化財
時代の前衛が次代の伝統を創造する
ブラウン
庭は本来、愛情をもって育まれ、人が身近に生活しているべきものです。しかし、アメリカやヨーロッパの日本庭園の現状には問題もあります。それは一種の“見せもの”になってしまっていることです。20世紀(明治)以降、観光寺院がそうであるように、朝9時から夕方5時まで見学される観光の場所、鑑賞の対象になっています。
加藤
近現代には、限られた人の私的なものであった庭園が広く多くの人に開かれましたね。
ブラウン
私は庭、とくに日本庭園が好きですが、生きた庭、生きられる庭が好きなのです。庭は本来、愛情をもって育まれ、人が身近に生活しているべきものです。その関係が庭をよくすると思います。「生きられる庭」が能動的で主体的であり、相互的でもあるのに対して、見られる庭は受動的です。私は、庭が人の営みの中に還っていくことを願っています。
加藤
昔はもっと人が庭のなかで遊んでいたのでしょうね。庭は遊興の場だったのでしょう。エネルギー革命以降、日々の暮らしから、人と自然の対話がどんどん失われました。それは庭師の美意識を培う難しさにも通底します。とくに平成以降、深刻な課題になっていると感じます。
ブラウン
日本庭園のもうひとつの問題は、現状維持に固執してしまっているケースが多いことです。守りに入っている。これでは新しいスタイルを確立することは難しい。重森三玲*3(作庭家) も川端龍子*4(日本画家) も生まれないでしょう。
加藤
庭園分野に限らず、京都の心ある職人は皆、伝統は「守る」「受け継ぐ」だけでは足りないと考えています。伝統が真に生き続けるためには、常に新しく創造され続けなければなりません。「不易」(普遍のもの)をもって、「流行」(新しいもの)を付加していくことが本当に伝統を生きることだというのが私たちの共通認識です。しかし皆が皆そうかというと、必ずしもそうではありません。
ブラウン
賛同します。単に守ることは容易く、まったく新しいことも容易い。加藤さんがしている「伝統の中に新しい価値をつくること」は、もっともめざすべきものです。加藤さんは40代で大学院に入り、博士課程を修了し、博士の学位をもっていますね。庭師が40代で大学院に入学するのはめずらしいように思いますが。
加藤
私の師匠の尼﨑博正*5 先生が導いてくれました。尼﨑先生も元は作庭家で、現場から研究畑に進まれました。先生が後進育成のために京都造形芸術大学で通信制の日本庭園学コースを新設された際、先生の勧めもあり、私は42歳で大学院に学ぶことになりました。そこで私は先人の日本庭園の研究をあらためてひもとき、学んでいくことになりました。
恩師の尼﨑博正教授と。京都造形芸術大学大学院博士課程修了式にて(2012 年)
ブラウン
大学院での学びや経験は、仕事にも理論の確立にも影響したでしょうね。
加藤
もちろんです。そうですね、リアルな現場の目線とアカデミックな研究の目線が相互に影響しあうイメージでしょうか。「一人前の庭師になるには200年かかる」という私の「庭師200年論」は、院の研究のなかで得た気づきでした。先行研究を学び、日本庭園の世界はこんなにも深いのかとしみじみと実感されるにつれて、「庭をわかるには、人の命は短すぎる」という思いが沸き上がってきたのです。そのためには、伝統から学び、仲間から学ぶことが重要です。夢窓国師*6 、小堀遠州*7 など過去の偉人からも学ぶし、新しいデザイナーからも学ぶ。たらこスパゲティーにも学ぶ。
ブラウン
たらこスパゲティー!?
加藤
パスタという外国の食文化に、たらこという日本の食べ物をあわせ、新しい美味しさを創造したわけですから。(笑)
ブラウン
なるほど(笑)。植治の庭も伝統の中にモダンなものを取り入れました。伝統の中の創造ですね。
加藤
そうですね。銀閣寺(慈照寺)の向月台をご存知でしょうか。
ブラウン
はい、もちろん。
加藤
NAJGAのスピーチで、歴史上の人物にタイムスリップして会えるとしたら、誰に会いたいか?という話をしました。そのとき私は、小堀遠州、夢窓国師、七代目小川治兵衛*8 の3人を挙げました。もちろんその通りなのですが、実はもうひとり、私がぜひ会いたい隠れベスト1があります
ブラウン
誰ですか。
加藤
それは、銀閣寺の向月台*9 と銀沙灘をつくった人です。あれは作庭時からのものではありません。あるとき後世の庭師が、池を浚渫した白川砂をあのように盛った。それを見た人が美しいと感じて、その結果、今もああして残っています。作った人の名前も理由も伝わっていません。名もない庭師が新たな伝統をつくったのです。そういうことが大事なのでしょう。びっくりするような斬新なものが、世の中に愛され、100年後には伝統になっている。そういう、いわば“21世紀の向月台”をめざしてやっていきたいと思っています。
ブラウン
すばらしいです。
日本庭園は二十一世紀のクラシックランドスケープ
ブラウン
かつて日本庭園は、異国趣味(エキゾチズム)、オリエンタリズムの対象でした。1889年のパリ万博に象徴される万国博覧会の時代、19世紀から20世紀初頭にかけて、日本が海外の博覧会場につくった「日本庭園」は多くの西洋人を魅了しました。漆器、浮世絵、日本画、陶磁器など、他の多くの日本の美術工芸がそうであったのと同じです。ジャポニスム(日本趣味)、シノワズリ(中国趣味)の時代でした。
加藤
日本にとっても西欧文化と出会う文明開化の時代でした。
ブラウン
戦後、姉妹都市の時代になり、アメリカでも各地でそれが踏襲されていきました。しかし、スタイル(様式)の確立がパターンの固定化に陥ってしまうと、本来の良さや自由な成長は見失われがちです。今この時代にあって、日本庭園は、より根源的な(ファンダメンタルな)価値が注目されるべきです。
加藤
なぜ日本庭園はこんなに人気があるのでしょう。日本庭園にはどんな価値があるのでしょうか。
ブラウン
人はある風景にストレスを感じ、ある風景には安らぎ(リラクゼーション)を感じます。雑踏や煩雑な都会の風景はストレスになります。では人が精神的に安らぎを感じるのはどんな風景でしょうか。それには6つの条件があります。一つめは広がりです。視界が妨げられない広さと手前の遮蔽物、奥行きです。二つめに、秩序が感じられること。三つめに、謎、見えない部分があること。四つめは明暗、光と影。五つめとして、自分が許容されていると思えること、入っていける安心感があります。最後の六つめは、青または緑の色と、水です。それはまさに庭、わけても日本庭園の風景なのです。
加藤
なるほど。
ブラウン
日本庭園の価値は、理想的に自然な環境であることです。西洋式庭園ももちろんすばらしいですが、やや人工的すぎるきらいがあります。あらゆる庭がすばらしい。しかし日本庭園は、中でももっとも優れた特徴を備えているのです。グロバール化が進むなか、フラット化と多様化の時代にあって、日本庭園の価値はますます高まっています。
加藤
興味深いですね。
ブラウン
音楽のジャンルで「クラシック」といえば、オーケストラに代表されるヨーロッパの伝統的な音楽芸術をさします。クラシックミュージックはユニバーサルミュージックであり、世界共通に愛され、好ましく親しまれてきました。日本庭園はそれに匹敵する根源的価値をもっています。私は、21世紀においては、日本庭園こそがデザインのクラシックになっていくべきものだし、なっていくだろうと考えています。
加藤
クラシックですか!
ブラウン
はい。「classic」という言葉は、もともと「最上級」を意味するラテン語を語源としており、古典、規範、伝統のほか、最高水準、不朽、普遍などの意味をもちます。「クラシック」が音楽のクラシックになったように、日本庭園が庭園の、景観のクラシックになっていく将来を私は望んでいます。来るべきクラシックランドスケープです。いつか世界中の人が日本庭園を見て安らぎを覚えてくれたらと願ってやみません。
加藤
クラシックランドスケープ。すばらしい概念ですね。身の引き締まる思いです。私たち日本の庭師、京都の庭師も原点回帰をしつつ、「フォスタリング」の精神で研鑽を重ねていかねばと改めて思いました。今日はありがとうございした。
ブラウン
ありがとうございました。
星のや 京都「奥の庭」。鑑賞する伝統的な枯山水は歩ける多目的ラウンジとして誕生(2009年)。
ケンダル・ブラウン氏
北米日本庭園協会(NAJGA)現会長 カリフォルニア大学ロングビーチ校アジア美術史教授
プロフィール カリフォルニア州バークレイ大学にて歴史、芸術史の学位・学士取得後、イェール大学で芸術史の博士号を取得。日本美術に関する書籍を出版するほか、北米における日本庭園研究の第一人者である。 代表的な出版物は西海岸の日本式の庭(1999)、隔絶政治:日本の桃山時代の絵画と力(1997 年ハワイ大学出版)、川瀬巴水木版画全集(2003、ホテイ出版)など。 近年は展示会の学芸員としてのプロジェクトもつとめ、川瀬巴水、日本博覧会、20 世紀前半の日本における西洋人女性アーティスト(エリザベス・キース、ヘレン・ハイド、バーサ・ラム、リリアン・ミラー)などの展示会に携わる。また、カリフォルニア州パシフィックアジア美術館にて、収集、展示、カリキュラムの学芸員として仕える。 現在は次書籍“庭の未来像”に取り組み、古い日本庭園のデザイン原則論や哲学のみならず、伝統的な考えと発展的な考えを繋ぐものを探る。 奥様のクニコ様は日本人。
2015年1月16日 京都市左京区「南禅寺順正」にて採録 協力:南禅寺順正 photo:西川善康 text:福田容子
*1 「生きられる風景」
景観学者の樋口忠彦氏は、景観工学の観点から日本の景観を分析した『景観の構造-ランドスケープとしての日本の景観』で「ランドスケープの段階の卓越した空間であるということは,自然地形が『思考される』という認識的段階の意味をもつのでなく,景観として『生きられる』『体験される』空間であるということである」と述べ、文化論的な考察の著である『日本の景観』では「生きられる景観」とは「住みこまれ生きられている好ましい棲息地の景観」であると定義した。
*2 北米日本庭園協会(NAJGA)
北米日本庭園協会(North American Japanese Garden Association:NAJGA)は、北米における日本庭園が持つ共通の問題や課題を共し、現地技術者の育成を目的とし2007年に設立された。2012年には日本庭園学会と連携協定を結ぶなど日本との交流が盛んになる中、2014年10月のシカゴカンファレンスにて加藤友規が基調講演を行った。その中で、「フォスタリング(fostering/育成)」という新しい概念を語り、エボリューション(evolution/進化)について語った。
「京の庭師の精神」基調講演要旨
*3 重森三玲(しげもり・みれい)
1896〜1975年。大正〜昭和の造園家。設計した庭園および茶室は、社寺、住宅、ホテルなど100を超える。代表作に東福寺方丈庭園、松尾大社の庭園などがある。全国の著名な庭園を実測調査した『日本庭園史図鑑』全28巻(1936~1939年)、『日本庭園史大系』(共著)全35巻(1971~1976年)などの著作を遺した。
*4 川端龍子(かわばた・りゅうし)
1885〜1966年。大正〜昭和の日本画家。初め洋画を学び、渡米後に日本画に転向した。壮大豪放な表現を理想とし、会場芸術としての日本画を唱えて院展を脱退。青龍社を主宰し、新境地を開いた。終生、在野の立場を貫く。文化勲章受章。主な作品に「鳴門(なると)」「魚紋」など。
*5 尼﨑博正(あまさき・ひろまさ)
造園家。京都造形芸術大学教授。同大学日本庭園・歴史遺産研究センター所長。専門は日本庭園文化史、作庭、ランドスケープデザイン。『植治の庭』(編著、1990年)、『石と水の意匠』(1992年)、『庭石と水の由来』(2002年)、『尼崎博正作庭集』(2006年)、『七代目 小川治兵衛』(2012年)ほか著書多数。日本造園学会賞(1992年)、京都府文化賞功労賞(2007年)、日本公園緑地協会 北村賞(2010年)、日本庭園学会賞(2011年)などを受賞。
*6 夢窓疎石(むそう・そせき)
夢窓疎石(1275~1351年)は鎌倉時代後期~南北朝時代の臨済宗の禅僧。その時代の権力者、後醍醐天皇や足利尊氏からも支持された。日本の中世を代表する作庭家でもあり、京都・天龍寺庭園、西芳寺庭園(苔寺)、鎌倉の瑞泉寺庭園などを作庭。夢窓国師という呼称でも知られる。
*7 小堀遠州(こぼり・えんしゅう)
1579〜1647年。江戸初期の武家、茶人・造園家。豊臣秀吉、徳川家康・秀忠らに仕え、仙洞御所や駿府(すんぷ)城、二条城の行幸御殿や二之丸庭園の作庭にもたずさわり、近世を代表する作庭家として名高い。和歌や書、茶にも親しみ、茶人としても著名。号は宗甫(そうほ)・孤篷(こほう)庵。
*8 七代目 小川治兵衛(おがわ・じへえ)
1860〜1933年。明治・大正・昭和の造園家。屋号から「植治」と通称される山縣有朋別荘の無鄰菴(むりんあん)を皮切りに、数多くの日本庭園を作庭し、近代日本の造園界を牽引した。流れを主体とし、臼石などの加工石を用いた開放的な雰囲気の庭園が特徴で、平安神宮神苑や對龍山荘庭園、円山公園、何有荘(かいうそう)、碧雲荘(へきうんそう)、旧古河庭園などが代表作として知られる。
*9 慈照寺(銀閣寺)の向月台
足利義政の山荘 東山殿(ひがしやまどの)を、死後に禅寺としたのが通称銀閣寺こと慈照寺で、ユネスコの世界遺産「古都京都の文化財」を構成する社寺などの1つでもある。その庭園に、白砂を盛り上げた向月台(こうげつだい)と銀沙灘(ぎんさだん)がある。今では銀閣の庭といえば向月台とされるほどに有名だが、当初からあったものではなく、江戸時代初期に庭園が改修されて以降に作られたものと考えられている。現代芸術家の岡本太郎が絶賛したことで知られ、池を浚渫した砂を造形美に転じた庭師の知恵ともいわれるが、作った意図や作者については、いまだ明らかとなっていない。