「作庭四分、維持管理六分」とは、日本庭園の管理の重要さを示す言葉です。日本庭園は、作庭工事を終えただけでは完成とはいえません。日々のお手入れを通してその真の価値が発揮され、適切なお手入れが行われなければ、その輝きはすぐに失われてしまいます。
植彌加藤造園では、「作庭四分、育成管理六分」という表現を用います。私たちは、人間の一生よりも長く、時には数百年以上にわたってはぐくまれ続けてきた庭園への畏敬の念を抱きながら、新たな庭園についても長きにわたってはぐくまれるように、と願いを込めて日々のお手入れを行っています。
日本庭園は生き物です。植物や昆虫、鳥や魚といった生物が命をはぐくみ、日本庭園そのものも日々、変化しています。数百年にわたって受け継がれてきた庭園の現在の姿は、作庭された当初と全く同じではありません。刻々と変化する樹木や水の流れなどを整え、時には石組や垣根の修理を行いながら、庭園ごとの本質的価値を顕在化させるお手入れこそが、植彌加藤造園の「育成管理」です。私たちは、庭園のお手入れを通じて、将来の世代へ日本庭園の価値を増幅して継承することを目指しています。
ホテル椿山荘東京は、「都会のオアシス」と言われるほど広大な庭園を有する国内屈指のラグジュアリーホテルとして知られています。実のところ、この地は明治 11 年(1878 年)に当時 40 歳の山縣有朋が自身の本宅として造営した「椿山荘」をルーツとしています。
update東本願寺前市民緑地は、京都駅から徒歩数分の東本願寺門前に位置します。京都駅周辺の活性化に取り組む京都市が、従前から存在したこの緑地をもっと活用できないかと検討していたところ、緑地所有者である東本願寺も地域に開かれた門前を目指すため緑地を活かしたいと考えていたことから、両者の思いが一致し、2021年から2023年にかけて整備されました。
update平城京左京三条二坊宮跡庭園は、その名の通り平城宮跡の南東、平城京左京三条二坊六坪に位置する庭園遺跡です。
update国の重要文化財である杉本家住宅前に位置するタカ・イシイギャラリー京都は、”鰻(うなぎ)の寝床”と言われる京町家(築約150年)の魅力を最大限に活かした現代アートギャラリーです。
update和集庵は、京都市左京区の南禅寺参道沿いにある庭園です。当地には、もともと旅館がありました。旅館が廃業した後、新たな施主様のご要望にお応えして、その庭園にあった庭石や石燈籠、樹木を使った庭を新たに作庭しました。庭園には施主様が琵琶湖畔に所有されていた石材も用いていますが、新しく追加したのは白砂とわずかな植栽程度で、ほとんどの素材は旅館の庭園にあったものです。
update京都嵯峨野山墅(きょうとさがのさんしょ)は2020年に京都市右京区に新築された個人邸です。敷地の約3/4を占める庭園の計画・設計・施工を弊社が担当させていただきました。
update福田美術館は京都を代表する景勝地・嵐山に2019年10月に開業した私設美術館です。三谷康彦(株式会社MLS)氏によるランドスケープの計画・設計のもと、特別修景地域にも指定されている嵐山の自然と空間に配慮しながら、弊社が実施設計・施工を行いました。
update真宗大谷派の長浜別院大通寺は、滋賀県・湖北地方の真宗寺院の中核として「長浜御坊」「長浜の御坊さん」と呼ばれ親しまれています。
update岩倉具視幽棲旧宅は江戸時代後期から明治前期にかけて活躍した公家、政治家である岩倉具視が幕末のころに約三年間過ごした建物を中心に構成される施設です。
update大阪府貝塚市の浄土真宗本願寺派・近木山要眼寺は貝塚寺内町の中心寺院・願泉寺の寺僧五か寺の一つです。この庭園は2017~2018年にかけて設計・施工を行わせていただきました。
update「古都平安の宿 奏」は,2017年に京都市左京区の岡崎地域に開業した宿泊施設です。当地は平安時代後期から「六勝寺」が置かれ,白河天皇に続く院政の中枢部として大いに栄えた地域です。
update国立京都国際会館は、2018年10月に既存のイベントホールと調和したデザインをそなえたニューホールをオープンしました。本計画に伴うランドスケープ工事においては、建築と庭が融合する「庭屋一如」をテーマに京都らしさを感じる空間が実現されました。
update国立京都国際会館(以下、会館)は1966(昭和41)年5月に、わが国初の国際会議場として開館しました。約156,000m2の広大な敷地に、本館、イベントホール等の会議、展示施設の他、宝ヶ池を臨む本館南西側には約23,000m2の日本庭園が設けられています。
update和輪庵(旧蒲原達弥邸)は、南禅寺界隈別荘庭園群の中でも名高い名園のひとつです。和輪庵にほど近い明治23年(1890)に竣工した琵琶湖疏水分線に沿っての散策路は、現在「哲学の道」と称され多くの京都市民や観光客に親しまれている場所でもあります。
update左京区岡崎に位置する当地には、もともと大正期に作られたと推測される主屋と庭園が残されていましたが、10年以上にわたり放置されかなり荒れ果てた状態になっていました。その邸宅を京都の風光明媚な土地柄を愛された現所有者の方が購入され、日本庭園の再生を行いました。
update昔より、国賓級の方を含め、多くの名士の宿泊場所となっている都ホテルが誕生したのは明治23年(1890)のことで、琵琶湖疏水が開鑿され、明治天皇らを迎えた通水式にあわせ、「吉水園(よしみずえん)」として開園しました。
update南禅寺にほど近い場所に位置するM邸の庭は、この敷地を別邸として利用するため、家の新築とあわせて作られた庭です。敷地に立つ主屋は、南禅寺にほど近いこともあり、伝統的な数寄屋風の建築となっているため、庭についても、主屋と同様、伝統的な日本庭園の作りとなっており、大きく、アプローチ部分の庭と居間と食堂に面した池庭、敷地の北側にある奧の小庭の3つにわかれています。
update大阪都心のオフィスビルに設けられる日本庭園として、美しく、やすらぎ・うるおいのある、都会のオアシスのような庭園を目指し、屋上という制約条件の中でも奥行き・スケール感のある風景、潤いの感じられる空間として古来から水を巧みに利用してきた日本庭園の景観づくりを行いました。
update嵐山荘は、天龍寺に程近い場所に新しく作られた、企業の保養施設です。京都ならではの庭園技術をいかした造園空間として、材料などの検討段階より参加しながら施工させていただきました。
update平安建都1200年の記念事業として建設された関西文化学術研究都市記念公園(けいはんな記念公園)の中に作られた回遊式庭園で、水景園と名付けられています。
update『小倉百人一首』は、13世紀に藤原定家が『古今和歌集』から『続後撰和歌集』にいたる歌集の中から、歌人100人の秀歌を合計100首選んでつくられた秀歌撰で、その撰集は、嵐山・嵯峨野地域の小倉山の麓で行われたといわれています。
update京都伏見にある松本酒造は、寛政3年(1791)の創業、2世紀以上にわたって京都の銘酒を醸造してきた老舗です。その酒造工場のある敷地の一画に昭和29年(1954)に完成した迎賓館「万暁院」と枯山水庭園「畫舫園(がぼうえん)」があります。
update明治に設立され、京都の伝統的な工芸美術の妙技を伝承・発展させてきた京染会。その拠点施設である京染会館の建て替えに伴い、その屋上に、色鮮やかに染められた反物が静かに水面にたなびく様をモチーフとし、モダンデザインのシンプルな構成の中にも四季折々に趣のある表情を見せる「京染の庭」が作られました。
update擁翠園の歴史は室町時代、3代将軍足利義満の管領(かんれい)をつとめた細川満元が築いた邸宅がその始まりと伝わります。邸宅は、応永33年(1426)に細川満元が没すると、寺に改められ、岩栖院(がんすいん)と称されました。
update「星のや 京都」の庭園では、長谷川浩己氏の斬新なランドスケープデザインに、植彌加藤造園の伝統的な施工技術がブレンドされた、和のおもてなし空間が創り出されています。伝統と革新が調和した、ここでしか味わえない庭園空間を楽しみ下さい。
update洛中はもちろんのこと、栂尾から山城までを舞台としつつ、連綿と世界に通ずる宇治茶文化を育んできた京都の自然と歴史文化が凝縮されているのが、福寿園京都本店の「庭園建築」です。
update順正書院は天保10年(1839)に蘭学医として著名な新宮凉庭によって開設された医学校を起源としています。南禅寺に隣接し、建築と庭園を配した清雅なその姿は、幕末に東山界隈の案内書として作られた『花洛名勝図会』によって広く世に紹介されました。
update對龍山荘は南禅寺の塔頭跡地に明治29~32年(1896~1899)にかけて伊集院兼常の別荘として造営されました。その後、市田弥一郎が譲り受け、明治34~38年(1901~1905)に改修が行われ、現在の景観の基礎が出来上がりました。
update何有荘(かいうそう)は明治になって廃された南禅寺の塔頭の跡地に築造されている約6千坪の大庭園です。
update南禅寺界隈における別荘群の先駆けとして、明治29年(1896)、七代目小川治兵衛(植治)により作庭された元勲・山縣有朋の別邸が無鄰菴です。
update誓願寺は飛鳥時代、天智天皇6年(667)、天皇の勅願により創建されたと伝えられます。もともとは奈良にあったのですが、鎌倉初期に京都の一条小川(現在の上京区元誓願寺通小川西入る)に移転し、その後、天正19年(1591)に豊臣秀吉の寺町整備に際して現在の三条寺町の地に移されました。
update知恩寺は、正式には長徳山功徳院百萬遍知恩寺といいます。知恩寺の歴史は、賀茂の禅坊と当時呼ばれていた賀茂の神宮寺に法然上人が住まわれたことに始まります。
update大本山金戒光明寺の大方丈の東北に面し、江戸時代中頃に作成された京都の案内書『都名所図会』にも記されている大池(鎧池)の周りには、「紫雲の庭」と「ご縁の道」が作られています。
update真言宗智山派の総本山で、根来寺(和歌山県)の学問所として鎌倉時代中頃に創立されました。豊臣秀吉によりいったん廃絶の憂き目にあいますが、江戸時代に徳川家康より寺地を拝領し再興されたのが現在の智積院です。
update真宗大谷派難波別院堺支院(堺南御坊)は、慶長8年(1603)、東本願寺第12 代・教如上人(1558~1614)が建立されたと伝えられ、仏法興隆の拠点として、多くの人々に親しまれて来ました。
update真宗大谷派の大谷祖廟は、宗祖親鸞聖人の、さらには多くの門徒の方々の墓所として、連日多くの方々がお参りされ、親鸞聖人のご遺徳を慕い、沢山のご献花が捧げられています。
update渉成園は、真宗大谷派の本山(真宗本廟)の飛地境内地で、周囲に枳殻(からたち)が植えてあったことから枳殻邸(きこくてい)とも呼ばれています。
updateこの庭園は江戸時代の南禅寺の塔頭の一つである大寧院の跡地にあります。明治初期の廃仏毀釈によって大寧院が廃され、上知されて後に民有地となった明治中頃に作庭され、しばらく後に茶人の藪内家11代目透月斎竹窓によって改修されたものと考えられます
update南禅院の庭園は、鎌倉時代末期を代表する池泉回遊式庭園です。往時の面影を残し、深い樹林で包まれた幽玄閑寂の赴きは格別で、大正12年(1923)に国の史跡及び名勝に指定されています。
update南禅寺本坊拝観の入口となる庫裏玄関を入ってすぐ、右手側にあるのが「滝の間」です。その名の由来でもある高低差のある滝は、1890年(明治23年)に開通した琵琶湖疏水より導水し造成されました。
update昭和58年(1983)の龍渕閣建築に伴い、塔頭帰雲院(きうんいん)が移転されることとなりました。併せて茶室不識庵(ふしきあん)の移築や、窮心亭(きゅうしんてい)の新築が行われ、南禅寺本坊東北部に華厳庭、龍吟庭などが竣工しました。
update京都市市電伏見線が廃止になった折り、軌道敷の板石が寺社に優先して払い下げられることとなりました。南禅寺は第1回の抽選会に参加、代理人として出向いた植彌加藤造園5代目加藤次郎が見事一番くじを獲得しました。
update「如心庭(にょしんてい)」が解脱した心の庭であるのに対し、この「六道庭」は、六道輪廻(りんね)の戒めの庭になります。
update国宝である小方丈の西側に作られた庭園で、別名「如心庭(にょしんてい)」といい、その名の如く、心字形に庭石を配置した枯山水の石庭となっています。
update大方丈庭園は、応仁の乱で焼失した南禅寺が以心崇伝(1569-1633)によって再興された際に作庭された、国宝である大方丈の南に面した庭で、小堀遠州作と伝えられています。
update鎌倉時代の末、もともとこの地にあった禅林寺殿と呼ばれる離宮でたびたび怪異な出来事が起きましたが、これを見事鎮めた無関普門禅師(大明国師)に深く帰依した亀山法皇が、正応4年(1291)、離宮を禅寺に改め、無関普門禅師を開山に迎えたのが南禅寺の始まりです。