【職人インタビュー】第2回:田尻喜之(植彌加藤造園 役員)

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【職人インタビュー】
第2回:田尻喜之(植彌加藤造園 役員)

植彌加藤造園ではたらく人々を紹介する「職人インタビュー」。第2回は植彌加藤造園 役員、田尻喜之のインタビューをお届けします。

――造園・植木屋の仕事をはじめて何年になりますか。

35年。19才の時、この世界に入りました。

――造園の仕事を志すきっかけは何でしたか?

中学校の頃、サラリーマンやるより手に職を付けたいなと思ったのがきっかけです。高校を決める頃、造園協会が京都府で初めて造園専門の学校をつくったんです。
そこに農業と造園、土木関係の学科があったので、ひらめきで造園をやっていこうかなと思いました。造園やったら体ひとつでやっていけるし、庭はなくならないので将来になって歳をとっても安定しているだろうから、この仕事にしました。
それから一番は、自分はもともと植物、動物が好きやったというのが大きいですね。

――専門の学校に入学するまでに、造園の仕事に触れる機会があったのでしょうか。

もちろん目にする機会は度々ありました。
植木屋さんは、職人さんらしいイメージがあったので、いいなぁと思ってました。
入学したら担当の先生が、東京農業大学出身の造園の専門家の方で、また、現場を経験して技術もある方だったので、その先生から造園のすばらしさを教えてもらいました。

――学校の実習で印象に残っているお庭はありますか。

よく覚えているのは南禅寺さんや、無鄰菴に行ったことかな。懐かしい!
3年間、お寺等いろんなお庭を見学に行かせてもらいました。
そのころ、いくつかの造園会社でも採用募集をしていましたが施工管理係のお仕事が多かったと思います。
植彌は食事付だったので選ばせてもらいました。

――植彌加藤造園に入社されたのは、学校の実習がきっかけですか?

先代の加藤彌壽雄さんに大事にしてもらえた、というのが大きいです。
僕の中では大きい存在で尊敬する人。親方として、人として、信頼できる人です。
一方で、いろいろ苦労はありましたけど(笑)。食事中でもごはん置いたまま説教は1時間、2時間が当たり前。でも、お話は好きやった。
現場の仕事から本社に帰ってきた時には昔はいつも、彌壽雄さんが階段のところに座って、焚火したり、水撒きしたりしてはって、今日どうやった?と声をかけてくれはるんです。こうでしたわ、ああでしたわとお話しを聞いてもらえるということは若手としてはとても大きいですね。

当時は何にもできひんのに、田尻、田尻と言ってもらえた。だから頑張ろう!と思えました。何か聞かれた時「あれここにある、これはここにある」とすぐ答えられ、準備できるようにしていました。普段の頑張りを評価してもらい、僕は会社の中でこれを強みにしていこうと思いました。

――田尻さんが入社した頃、社員は何名ぐらいだったのでしょうか。

10人いってない。7~8人、5~6人ぐらいかな。南禅寺さん、東本願寺さんに毎日だれかが入っていました。
毎年、京都市の街路樹か公園の年間管理業務がありましたね。それから、年度末には公共工事の仕事で植栽工事をやったりしていました。

――京都の街並みは、街路樹がとてもきれいだとよく言われますね。

昔から円錐形、あのかたちです。ある程度高さを揃えて、綺麗な並木にしていくというのが昔から京都で行われているやり方です。造園協会や京都市等は誇りをもってやっていると思います。
京都駅に下りて、並木が綺麗に並んでいたら、京都にきたなと思って頂けると嬉しいです。

――特に思い出に残っている現場はありますか?

僕が入って5~6年経った頃、その頃は街路樹でも下草を手で引いていました。今は機械やけど。当時はまだ安全管理資格を取得していなかったんで、上にのぼっている人が枝を伐って、それをどんどん片付けていく役目でした。
そういうわけで、ずっと庭造りには携わっていませんでした。誰かが造ったお庭の管理をお手伝いしたり、材料買いに行ったり片付けしたりして、常に現場におるわけではなかったんです。

そこで初めて庭造りに携わったのが岐阜のIさん。初めて僕が頭になって、設計部に作ってもらったコンセプトを基に、お施主さんと話をしながらイメージをつけて、僕が考えてやらせてもらった。35年間勤めていて、岐阜のIさんが一番思い出に残っています。
自然石を使い、三尊石を置き、自然の流れをつくり・・・。
また、Iさんが昔のお庭からとって置いてはった物を全部再利用しているお庭です。何より施主様に喜んでいただけたのが、嬉しかったです。

――仕事にやりがいを感じるのはどんなときですか?

それはもう、お客さんに褒められた時!
個人邸に行かせてもらった時に、「綺麗になったー、さすが植彌さんやなー」と。「お庭らしくなった」と言われるのが嬉しいです。
顔覚えてもらって、また、頼むわな、と笑顔で言ってもらえた時もひとしおですね!反面、「スッキリしたね」は仕事について単純作業的な印象を感じてしまうので、もっと庭の魅力の伝わる手入れをしようと思いますね。

――田尻さんの得意分野は?

剪定に関してはプライドがありますね(笑)。
こんだけのスピードで伐る、お客さんが求めていることを空間全体の印象として解釈して、お金の事も考えながら予算内に収まるように管理の計画を立てます。丁寧にせなあかんところと、荒くてもいけるところを考えて見せていくことは得意だと思っています。 つまり景色づくりです。

――職人としてのこだわりはありますか?

見積もりの金額内で、どこまで魅力的な空間にできるか、です。
また、若い子から話を聞いてやること。
現場の仕事から帰ってきた子に対して冗談言いながら話を聞いてあげることを心掛けたいと思っています。
現場どうやった?試験どうやった?と声をかける、話をする、時には指導もする。こういったことを、僕のできる範囲でしてあげたい。

それは彌壽雄さんから学んだこと、経験させて頂いたことでもあります。

――職人としての夢をおしえてください。

やさしさ、職人の技術力を若い者に伝えていかなあかんと思っています。
今は、ずっと植木屋さんが自らの手でしてきた庭の技術、自然石を使って庭をつくる等という技術が廃ってきていると感じます。技術を持たずにただ単にタイルや平板を並べるだけではなく、技術を残していきたいと思っています。

――今後の社会で日本庭園が果たしていく役割は?

これから先、ストレス社会がひどくなり、もっと機械化も進み、人間が安らげる場所が無くなっていくと思います。土地代も高くなり、お家にお庭をつくって心休めることもなくなってきているので、心を静める、落ち着かせる、安らげる場を造っていかなあかん。
そこからまた頑張ろうと思ってもらえるような場所、そんな日本庭園を造らなあかんと思っています。

それから最後に、自分の都道府県にもこんな立派なお庭があるんやと、まず、造園屋が感じ取って、これを綺麗にしていこうと、地元で、感性を持った植木屋さん、プライドを持った植木屋さんが増えてほしいと思います。

(2022年春)
photo:相模友士郎 text:植彌加藤造園 知財企画部