枯山水は、伝統的な日本庭園の中でも代表的な形式の一つです。
多くの場合、枯山水庭園の構成は驚くほど簡潔です。典型的な例では、砂利で表現された海と、その間に設えられた石組と対照的に、わずかなコケや樹木が植栽されています。しかしこの一見たいへんミニマルにみえる芸術には、深い含蓄があります。枯山水という様式を効果的に活かすこと――限られた表現方法で新たな可能性を見出すことは、庭師にとって最も困難な挑戦の一つといえます。
日本の庭園史の中で、水がないことを主な特徴とする庭園が、なぜこれほどまでに存在感を示すようになったのでしょうか。
枯山水という言葉は、平安時代に成立した最古の造園書『作庭記』で既に用いられています。しかし、この頃に「枯山水」と呼ばれていたのは、池を中心に展開される寝殿造庭園の中で、池や遣水と離れた場所にある築山の麓や野筋(帯状のかすかな地形の高まり)の裾あたりに立てられた石そのものや石組のことでした。
現在、一般に理解されている水を用いず石組を主体として自然景観などを象徴的に表現する庭園様式としての「枯山水」が現れたのは、室町時代のことと考えられています。
枯山水様式の成立には、中国から伝来した風景を題材とした山水画の影響も指摘されています。
大徳寺大仙院や龍安寺など、代表的な枯山水は禅宗寺院に多くみられます。当時中国へ渡った人々には禅僧も多く含まれており、限られた紙幅に千里の景を収める「咫尺千里」や、画面の中に書き込めないものについて、余白を残すことで見るものの想像に委ねる「残山剰水」といった山水画の理念と技法を三次元化した枯山水が造られるようになったようです。
戦国時代に日本を訪れたポルトガル人宣教師の記録によれば、ある寺院の枯山水庭園でバラをはじめとする多様な樹木や草花の植栽を目にし、禅僧からこの庭園で四季を通じて花が咲くと聞いています。
現在、一般的に理解されている枯山水庭園は「四季を通じて花が咲く」イメージではありませんから、枯山水庭園にも時代とともに変化があったことを推し量ることができます。
枯山水庭園が禅の思想をどの程度表現しているかは別にして、枯山水が日本庭園の歴史に新たな1ページを開いたことは間違いありません。
現代では、枯山水は世界各地に広がっています。
日本の造園会社として、枯山水の真髄を深く知ることは必須といえるでしょう。