文化財修復一覧

「「作庭四分、維持管理六分」とは、日本庭園の管理の重要さを示す言葉です。日本庭園は、作庭工事を終えただけでは完成とはいえません。日々のお手入れを通してその真の価値が発揮され、適切なお手入れが行われなければ、その輝きはすぐに失われてしまいます。
植彌加藤造園では、「作庭四分、育成管理六分」という表現を用います。私たちは、人間の一生よりも長く、時には数百年以上にわたってはぐくまれ続けてきた庭園への畏敬の念を抱きながら、新たな庭園についても長きにわたってはぐくまれるように、と願いを込めて日々のお手入れを行っています。
日本庭園は生き物です。植物や昆虫、鳥や魚といった生物が命をはぐくみ、日本庭園そのものも日々、変化しています。数百年にわたって受け継がれてきた庭園の現在の姿は、作庭された当初と全く同じではありません。刻々と変化する樹木や水の流れなどを整え、時には石組や垣根の修理を行いながら、庭園ごとの本質的価値を顕在化させるお手入れこそが、植彌加藤造園の「育成管理」です。私たちは、庭園のお手入れを通じて、将来の世代へ日本庭園の価値を増幅して継承することを目指しています。

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平城京左京三条二坊宮跡庭園

平城京左京三条二坊宮跡庭園は、その名の通り平城宮跡の南東、平城京左京三条二坊六坪に位置する庭園遺跡です。

ウェスティン都ホテル京都

昔より、国賓級の方を含め、多くの名士の宿泊場所となっている都ホテルが誕生したのは明治23年(1890)のことで、琵琶湖疏水が開鑿され、明治天皇らを迎えた通水式にあわせ、「吉水園(よしみずえん)」として開園しました。

對龍山荘

對龍山荘は南禅寺の塔頭跡地に明治29~32年(1896~1899)にかけて伊集院兼常の別荘として造営されました。その後、市田弥一郎が譲り受け、明治34~38年(1901~1905)に改修が行われ、現在の景観の基礎が出来上がりました。

無鄰菴

南禅寺界隈における別荘群の先駆けとして、明治29年(1896)、七代目小川治兵衛(植治)により作庭された元勲・山縣有朋の別邸が無鄰菴です。

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智積院

真言宗智山派の総本山で、根来寺(和歌山県)の学問所として鎌倉時代中頃に創立されました。豊臣秀吉によりいったん廃絶の憂き目にあいますが、江戸時代に徳川家康より寺地を拝領し再興されたのが現在の智積院です。

渉成園

渉成園は、真宗大谷派の本山(真宗本廟)の飛地境内地で、周囲に枳殻(からたち)が植えてあったことから枳殻邸(きこくてい)とも呼ばれています。

南禅寺

鎌倉時代の末、もともとこの地にあった禅林寺殿と呼ばれる離宮でたびたび怪異な出来事が起きましたが、これを見事鎮めた無関普門禅師(大明国師)に深く帰依した亀山法皇が、正応4年(1291)、離宮を禅寺に改め、無関普門禅師を開山に迎えたのが南禅寺の始まりです。